教育心理の部屋

第16回「メタ認知」(第2章 学ぶことと考えること)

第16回
2018/4/1
「メタ認知」(第2章 学ぶことと考えること)

問題解決に役立つ力としてメタ認知があります。メタ認知とは認知の認知であり、自分の思考や行動を客観的に把握することです。教育心理の領域では自分の記憶や問題解決に関する知識のことを指します。例えば自分は「ケアレスミスが多いことを知っている」「英語が苦手で勉強を避ける傾向があると知っている」ことがメタ認知です。「自分は自分を否定されると怒りがわくことを知っている」も広義ではメタ認知例です。

メタ認知能力が伸びると、問題解決がしやすくなります。Brown教授(1984年)のある観察では「1つ2/3ℓ入る水差しが6つあり、レモネードが入っている。レモネードは全部でいくらありますか?」という問題にある子供は18ℓと答える子がいたそうです。冷静に考えれば水差し1つ2/3ℓで6ℓより多くなるはずがないので、18ℓという答えはおかしいと気づくはずですが、気づかない。つまり、自分が今行っている問題解決の方法を離れて自己点検できないのです。

年少の子供は自分で学習するときに、できなかったことに多くの時間をかけることをしないようです。確かに娘の実来も、ピアノを弾くときに、部分練習を以前教えたのにも関わらず、間違えた箇所を重点的に練習せず、間違えると曲の始めからやり直す、もしくは弾き直してすぐに先に進むことをします。

肝心のメタ認知はどのように伸ばすのか。本書にはなかったので、また次回調べて書きたいと思います。
(599字)

宗興の本棚

第35週『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』

第35週
2018/4/1
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』
飲茶著 河出文庫

ライフスキル教育という自分の思想の依拠できるような思想・哲学は何か。今回は東洋思想に手がかりを得るべく、西洋版の続編を購読しました。

東洋思想の特徴を5つにまとめます。

一つ目、西洋思想は結論を探求し続けるバトンリレー型、東洋思想は結論は出ておりそこを解釈していくピラミッド型です。結論は、インドのヤージュニャヴァルキヤが提唱した「梵我一如(ぼんがいちにょ)です。これは世界も個人も同一であるという考え方です。ウパニシャッド哲学と呼びます。この結論を頂点とし、様々な人が様々な解釈をしていく形で思想が広がります。

二つ目は、西洋哲学は「世界の根源は何か」「本当に正しいことは何か」など人間の外側に感心が高く、それにより科学や学問が発達します。一方、東洋哲学は自己(私)と内側の探求にすべてのエネルギーを振り向けていました。

三つ目、西洋哲学は知識を得て考える、論理に論理を重ねれば「分かる」にたどりつきます。東洋哲学の「分かる」とは、知識を得るだけでは到底無理であり体験でしかないとのこと。釈迦が「悟り」は、知識を得ることではなく感覚的な体験をもとにていします。思考ではなく感覚。念仏、瞑想、座禅をはじめ数多の修行も同様です。東洋思想は身体を使ったものが多いのも「頂点の結論」に達するのに体験が必要だからです。

四つ目、中国の「道(タオ)」がインドの梵我一如とほぼ同義です。「道」は混沌とした何かで、天地よりも先に存在するものであり、万物は道から生まれると老子が提唱しました。それを分かりやすく表現したのが荘子であり、「老荘思想」も東洋哲学のもう一方の源流と捉えてよいでしょう。

五つ目、言葉を使った思考活動を分別智と言い、物事を直感的に理解することを無分別知という。人間は言葉を使って、区別をつけ認識をしようとしています。あるゆる物理現象は相互作用であり、確固たる実体としてそこに存在しているわけではないのにも関わらず。存在しているとは私達が区別しているから存在しているだけなのです。よって梵我一如、無我、悟り、無為自然、そして無分別智を目指すものは、最終的に自分は存在しないという恐怖と闘わなくてはなりません。

以上です。結論として、この東洋思想がライフスキル教育の思想支柱になるかは分かりません。ただ、自己を見ていく、自分を見ていくということは、ライフスキル教育の根本ではあると感じます。また、英明の道が少し理解できた気がします。
(1011字)