第100週
2019/6/30
『公教育をイチから考えよう』
リヒテルズ直子・苫野一徳著 日本評論社
LIFULL社の浜岡さんから紹介頂いた本。公教育は何のためにあるのか、という問いの答えを洗練化する目的で読みました。オランダを中心に海外の教育に詳しいリヒテルズさんと、教育哲学者の苫野一徳さんの共著であり、それぞれの教育論や対談を載せ、公教育の本質に迫っています。
一番大きな収穫は「公教育はなんのためにあるのか」について、より深化した知見をえられたことです。苫野さんは公教育の目的は「自由の相互承認の実質化」であると仰っています。論旨としては、以下になります。
①人には欲望・関心相関性の原理があり、個々の欲望や関心に応じてその意味や価値を表す。個性を生かす教育を好む人もいれば、一斉授業を好む人もいる、絶対に「正しい」「よい」教育は存在せず、欲望・関心から生まれる信念が違うから対立が起こる。
②その上で、「人間的欲望の本質は自由である」とヘーゲルは打ち出した。人間誰しも生きたいように生きたい、自由に生きたいという欲望をもっている。お互いに自由な存在であることを認め合い、そのことをルール(法)として定める。これだけが人類が自由かつ平和に共生できる道である。これを「自由の相互承認」の原理という。
③この原理に基づいた社会を創るには「法・教育・福祉」が必要である。その文脈の教育の目的は、誰しもが自由の相互承認の感度を育み、この社会を自由にいけるために教養=力能を一定以上獲得することとなる。つまり「自由の相互承認の原理」を実質化することに他ならない。
私は、公教育は「誰もがその社会に必要な資質・能力を育む」ことを目的としている、とおいており、各国の社会を前提に考えていました。苫野さんが提示した原理は、更に抽象度を上げ(本質にふみこみ)、人類全体の普遍的な公教育の目的と言えるものだと感じます。日本は明治期に公教育を導入した背景から、「公」に奉仕するための公教育というイメージが強いですが、完全に転倒した考え方と苫野さんは批判しています。
そして、私達が咲心舎や清瀬第二中で行っているビジョンセッションが「自由の相互承認」の原理を実質化するものと感じ、背中を押された気がします。自由であるために、自ら考える力と、互いに自由を認める感度が必要であると苫野さんは仰っていますが、ビジョンセッションはまさに「みんな違ってみんないい」ということを理念にダイアログをするものです。実際の現場では、様々な困難が立ちはだかりますが、一つ一つ克服していきます。
(1021字)